【アラベスク】メニューへ戻る 第19章【朝靄の欠片】目次へ 各章の簡単なあらすじへ 登場人物紹介の表示(別窓)

前のお話へ戻る 次のお話へ進む







【アラベスク】  第19章 朝靄の欠片



第3節 異郷のVega [7]




 こんな高熱を出しても休ませてももらえないような状況が、父親の経営する工場で起こっているのだろうか? 自分は、跡を継げと言われているのに、何も知らない。何が真実で、何が間違いなのかも。
 薬の効果に加えて疲労も溜まっていたのだろう。早苗は夕方まで目覚める事はなかった。栄一郎は、ただぼんやりと部屋のソファーに身を埋めていた。
 こんな事は初めてだった。
 若さを持て余し、自分を取り囲むすべてのモノに反感を抱き、ただ突っぱねる事だけにしか愉しみを感じる事のできない毎日の自分と比べて、それはあまりにも異様な有様だった。
「もしや、栄一郎様にもお熱が」
 などと木崎が本気で心配したのも無理は無い。栄一郎自身、自分でも自分が信じられないのだから。
 俺は、どうしてこんな小娘なんかの為に。
 西から差し込む夕陽に染まりながらぼんやりと考える。
 辞めてやると言いながら辞めることもできず、休みたいと願いながらも休む事ができない。きっと寄宿係りや職制に対してもあのような反発的な態度を取ってはいるのかもしれないが、だが仕事をサボるつもりはないらしい。
 家が、貧しいからか?
 霞流の工場だけでなく、どこの会社にも貧しい農村からの出稼ぎ女工は多い。あまりにも家庭が貧しいと思想的に危険な場合もあるからと、採用の際には募集人に家庭事情をよく調べさせているとは聞いた事があるが、結局集められるのは貧しい家庭を支える為に出てきた少年少女たちなのだろう。
 工員は、隙あらばサボろうとする愚人だ。そんなヤツらに金を与えてやっているのだ。それ以上の情けなどかける必要は無い。
 父は常々そう言っている。
 本当にそうなのだろうか?
 栄一郎の自宅と工員の寮とは歩いて五分ほど。そんな近くに、自分の知らない闇のような世界が広がっているのかもしれないと考えると、身震いがした。夕食に酒を用意するかと使用人に聞かれたが、とても酒など呑もうという気にはなれなかった。
 早苗が目覚めたのは、ようやく陽が落ちて部屋が薄暗くなり始めた頃。目覚めた彼女は、寸刻のうちに身を跳ね上がらせた。
「帰るのか?」
 朝の騒ぎから考えればおよその予測はできる。早苗の思考を読み取った栄一郎が、静かに笑った。
「お前、今週は早番だろ。帰ったところで、どうせ勤務は終わってる」
「休んで、しまったのか」
 呆然とする相手に瞳を細める。
「どうしてそこまで働く? 家が貧しいからか?」
「お前にはわからない世界だ」
「そうだな。俺はお前たちとは違う世界の人間だからな」
 唇を噛み締める相手に大きく息を吐き、ソファーから立ち上がった。
「飯を持ってくるように言ってきてやる」
「いらない」
 突っぱねるような言い草が笑えた。
「強がるな。腹減ってるんだろう? 前に言ってたじゃないか。腹いっぱい食いたいって」
「今はいらない」
「強情だな」
 鼻で笑い、部屋を出た。使用人を呼び、再び戻ると、早苗はおとなしくベッドに身を起こして窓の外を眺めていた。
「少しは利口になったな」
「ここはどこだ?」
「富丘だ」
「電車でどのくらいかかる?」
「寮までか?」
「それ以外に行くところなんて無い」
「時間か? それとも金か?」
「両方」
「知ってどうする?」
「明日の始業までには帰らないといけない」
「無理だな。乗り換えもあるのにお前みたいな田舎娘一人では無理だ」
 布団を握る手に力を込める。
「私を帰せ。今すぐにだ」
 扉をノックする音。
「そういう話は飯を食ってからにしな」
 使用人が食事をセットし、一礼して下がった。再び、二人だけの世界が広がる。
「食えよ」
「いらない」
美味(うま)そうなのに」
 言いながら覗き込む。雑炊だ。早苗たちが日ごろ寮の食堂で口にしている食事よりもよっぽど豪勢だ。玉子や緑菜、肉まで入っている。早苗はチラリと一瞥し、そっぽを向いた。
「いらない」
「冷めるぞ」
「だったらアンタが食べればいいだろ」
 まったく。
 小さく溜息をつき、蓮華で(すく)った。暑い盛りだが腹が減っているからだろうか。緑豊かな庭からの風が涼を漂わせているからかもしれない。食べれば汗が噴出しそうな暖かい雑炊でも食欲をそそられる。
 一口食してみる。
「美味いぞ」
「ふーん」
 再び一瞥し、視線を窓へ向ける。
「いらないんなら、食ってしまうぞ」
「どうぞ」
 素っ気無い答えながら、その喉が小さく鳴るのを栄一郎は見逃さなかった。気丈に視線をそむけるその目尻の凛々しさと、キュッと引き締めて一口も食すまいと意思を固める唇のふくよかさと、空腹を気付かれまいとして力を入れる腹の動きと、それらすべてが妙に艶かしく思えた。ギュッと、胸を鷲掴みにされるような苦しさを覚えた。
「本当に、強情だな」
 呟くと、もう一口を含んだ。そうしてそのまま早苗の顎を掴んだ。驚いて声をあげる間も与えずにその口を塞いだ。勢いで倒れた。圧し掛かられて両手をバタつかせるが、やせ細った腕で栄一郎を払いのけることなど不可能だ。造作無く口移しで押し込んでやった。ふっくらとした唇の動きが、口伝いに栄一郎へ伝わる。抵抗する口の端から一筋が零れた。灯りに照らされて光るそれはあまりに艶々しくて、興奮した。与えているようで、実は自分の方が彼女から貪り取ろうとしているかのようだった。息苦しさに耐えかねて飲み込むのが喉の動きでわかった。細い喉が波打つ様子が生々しくて、しばらくそのまま押し倒していた。ようやく離れた栄一郎の頬に、容赦の無い一発が飛んできた。
「何をするっ!」
 頬を紅潮させてガタガタと震える姿に、優越を感じた。
 初心(うぶ)だな。
 そう嘲笑いながら、心のどこかから、それは自分の事なのではないかという自嘲も沸いてくる。
 キスなど、これが初めてではない。繁華街などに出入りもしている。言い寄ってくる女も何人かはいる。だが、このようなキスは初めてのような気がする。こんなに情熱的で、強欲的で、でもどこか清らかで、偽りが無い。
 嘘じゃない。
「何をする」
 繰り返す相手に、栄一郎は口を拭いながら笑った。
「お前が食わないからだ」
「いらないと言ってるだろう」
「腹はそうは言っていない」
 慌てて両手で腹を押さえる。
「食えと言っているんだ。食っておけ。それとも何だ? 今みたいに食わせてもらいたいのか? 俺は構わないぜ」
 言いながら指で弄ぶ蓮華を、早苗は右手を振り回して奪い取った。
「冗談じゃない」
 そのまま勢いよく頬張った。がっつくようなその食べっぷりは、決して品の良い食べ方とは言えない。だが栄一郎は、その野生的で、直情的な仕草から、目を離す事ができずにいた。







あなたが現在お読みになっているのは、第19章【朝靄の欠片】第3節【異郷のVega】です。
前のお話へ戻る 次のお話へ進む

【アラベスク】メニューへ戻る 第19章【朝靄の欠片】目次へ 各章の簡単なあらすじへ 登場人物紹介の表示(別窓)